2020年3月2日

歩き遍路

遍路宿で一緒だったおっちゃんが言ってたこと。


  いくらかの自由になるお金と時間、そして健康。
  揃っている人だけがここに来られる。幸せなことだ。


これらが揃う時間はそう長くない。揃っている人は、ぜひ一度。

世界でも日本語ネイティブだけが深く味わえる世界がありますよ。





心が穏やかになるんですよ、不思議と。穏やかな心でいられる。

雑事から解放される影響は大きいと思います。家事、仕事はもちろん、モノや人間関係からも、いったん開放される。ただ、支払いからは開放されませんのでご注意を。

同行二人(どうぎょうににん。弘法大師が一緒に歩いてくれている、という意味らしい。)という「言葉があるだけ」なのに、護られている感、一人じゃない感が出る。古くからの霊場という場の力と、同行二人という言葉の力で守られながら歩き続けることができる。

一人で歩いている時間が長いので、内省する機会が多くあります。ただ、なぜか余計なことを考えなくなる。体を動かし続けていることや、日常とは違った様々な刺激があることで思考がほどよく中断されるからでしょうか。

歩き続けていると、現実的に実行可能な選択肢に思考が絞られる気がします。目に見える範囲のことだけを考えるからでしょうか。今夜の宿にたどり着くことや、食料の確保など、具体的なことに注力しているからかもしれません。本当はどうでもいいことに、ああでもない、こうでもない、と気をもむ時間が少なくなる気がします。





そこにいるだけで理由もなく心から歓迎される体験って、なかなかないですよね。歩いているだけで声をかけられる。海外旅行なら、たいていは無視するか軽くあしらうかしないとトラブルに巻き込まれる場面です。ところが、本当に真心から声をかけてくれるんですよ。

お年寄りの間では歩き遍路は弘法大師の化身として扱われ、接待すると功徳になるという文化があるそうです。お茶や食事にお宅に上がっていくよう促されたり、食べ物や身に付けるものなどが入った袋をくれたりします。現金が入っていることすらあります。ただ、自分が体験したのはもう十数年前の話なので、2020年にどの程度までそのままなのかは不明です。

向こうから話しかけられるだけではなく、人に頼らざるを得ない環境だからこそ、こちらから話しかけることも多くなります。知らない場所で、持ち物も限られている。普段ならなんでも自分でできてしまう人も、道を尋ねたり、宿を乞うたりせざるを得ない。

そうやって、ふとしたきっかけで会話が始まる事が多く、見知らぬ人とのめぐりあいは普段とは比べ物にならない頻度でした。ちょっと変わった若者。定年後でゆっくり旅したい人。何かしらで傷ついた人。Camino de Santiago(スペインの巡礼の道)との比較に来ている人。もちろん地元の人たち。旅で出会った人たち、不思議と覚えてます。





現代人は基本的に、ヒトとしての体が想定しているほどは動いていません。ひたすら歩くことで、ヒトの体が本来の環境に近くなり、活き活きしてくる部分はあると思います。

ご飯を茶碗に4,5杯はいけます。それでも体重が減っていく。痩せたい人にはおすすめです。歩いても痩せられないという人は、いま歩いてる時間の2、3倍歩くと、また違ってくるかもしれません。

めちゃくちゃ眠れます。というよりも、眠くて起きていられません。快眠。目覚めもスッキリ。

ただ、歩きなれていない人、肥満の人、ご高齢の方がいきなり長時間、長距離を歩くと、膝を痛めることが多いようです。徳島から始める人が多いのですが、高知方面最後の寺までの間に足腰を痛めて中断する方がかなりおられるようです。ご注意を。





一部以外は全て田舎ですので、普段よほどの田舎に暮らしている人以外は、普段より自然を感じます。海も山も川もあり、新鮮な食材が多い。

不殺生にこだわる人でなければ、魚介類や肉など地域の食材を楽しめます。

酒は、遍路宿ではあまり食指が動くものはなかった印象です。これは!というものがなければ、せっかくなので不飲酒を守ってもいいかも。地酒だからうまいわけでもなく、飲んでみないとわからないのですが、遍路とは関係なく後日おとずれた砥部の酒はなかなか美味しかったので、近くに造り酒屋がある地域では試してみるのも良いかもしれません。


自然の多いところで体を動かし続けることで、動物であり人間でもある自らと、自然のことわり、人の世のことわりを見つめる機会が増えると思います。





また、持ち物が制限されることを通して、暮らすのに本当に必要なモノなんてそんなに多くないということを感じます。何週間か旅暮らしをすると、本当にないと困るものが見えてきます。

歩き遍路なら、着替えとお金、携帯食、携帯電話と充電関連のものぐらいしか必要ないんじゃないでしょうか。

そうすると、家においてきたものは一体なんなのか、と考えるきっかけになります。家に残してきたもの、なくてもよいものが結構あると思います。





祈ることを、多くの日本人は普段あまりしないと思います。初詣くらいですかね。仏壇にお供えやお線香をあげることは、身近な人を失った経験のある人なら、わりとするのかもしれません。
私は家に仏壇もないし信心深くもないので普段まったく祈りません。でも、歩いてたときは毎日祈ってたんですよ。今でも覚えています、真言。

 おんあぼきゃべいろしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん

そして、セットの

 願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを

も。


特に何を願っていたわけでもなくとも、祈り続けてみると、心が落ち着く感じはありました。私自身は、テロの影響で家族からエジプトへの旅行をやめるよう懇願され、仕方なく国内で面白そうなところを探して遍路に行っただけだったにもかかわらず。神仏に護られている感じがするからなのか、祈っている間は余計なことを考えなくなるからなのか。

今では全くやっていませんが、祈る効果は大きいと思います。コストゼロで心が落ち着きます。祈る以外にできることがなにもないような状況では、なおさらでしょう。もし効果が得られなかったとしても、何も起きないだけです。考えてみると、やらない理由がない。また祈ろうかな。

信じるものは救われる。とはいえ多くの日本人にとって、イエス・キリストは神であるとという話は、すっと入ってくるとは言い難いと思います。でも、真言や念仏を唱えれば救われるという話や、天神さんやお稲荷さんが助けてくれるという話なら、わりとすっと入ってくる可能性が高いように思います。比較的抵抗なく信じられるものがあるのなら、信じたほうが得だとは思います。

近くのお寺や神社にちょくちょくお参りして祈るだけなら、ほぼコストゼロです。そのうちお世話になったなぁと思い出したら、お賽銭を少し入れればいい。あるいは落ちてるゴミを拾うなどの奉仕でもよいでしょう。本来はそういう場所だったと思うんですよね、民衆にとってのお寺とかお宮とかって。特定の宗教団体に所属したり活動に参加したりすると、いろいろ面倒だと思いますので、注意しましょう。





遍路は一応、修行という位置づけらしいのですが、ただ厳しいだけの修行でなく、さまざまな人たちからの助けがあります。自分を律するだけではなく、人の厚意に身を委ねることも含まれた旅。凡夫が現実的に日常でできることをなぞっているのでしょうか。

遍路というシステムが何百年も機能しているだけでなく、それが現在に至るまで経済活動を呼び込んでいるのもすごいです。パキスタンで活動していた中村医師がインフラを整えることに取り組んだように、遥かな昔に、人の心だけでなく数百年後の人々の生活まで救済するシステムを作り上げたのでしょうか。





四国を歩くなら春か秋がお勧めです。夏と冬は、よほど強くてストイックな人以外はやめた方が良いでしょう。4月でも天気が良い日はかなり暑いです。下手すると、誰もいないところで行き倒れて死にます。いつ斃れてもそのまま埋葬できるための白装束だそうですが、いまどき遍路の途中で死ぬことを意図して白装束を着る人もいないでしょう。

スタートとなることの多い徳島は遍路の数が多く、あまり声をかけてくる人もいないのですが、高知に入ると遍路の数が激減し、声をかけられることが多くなります。そのあたりを体験したい人は、高知から始めてもよいかもしれません。





もちろん四国に行けば本場の環境が整っているし、それまでの日常から物理的に隔離されるので、効果が高い。ちょっとの遠出ならできるという人は、西国三十三所や御室八十八ヶ所など、各地にいろいろ代わりになるものがあります。


ただ、同行二人だけならいつでもどこでもできる。

ひたすらその辺を歩きまわるだけで同様のことができるはず。まずは、楽しく歩けそうななところを見つけることから始めてみるのがよいと思います。

通勤・通学のバスや電車を1駅前で降りて歩くのもよいです。いままで通り過ぎていた何かを発見することにもつながるし、運動量を増やすことにもつながります。なんといっても無料。


ともに歩くのは弘法大師でなくてもいい。隣りにいてくれる人でも、心の中にいてくれる人でも、誰かいるのなら空海である必要はない。

唱えるのは真言でなくてもいい。なにか一心に思うことがあるなら、それを繰り返し思ったり、唱えたりするのでもいいと思う。

歩くのは四国でなくてもいい。世界中どこでも、誰とでも歩くことができる。

でも、いまは共に歩く人がいないなら、お大師様が一緒にいてくれる。

ひたすら歩き、一心に祈ることが、過去を流し、いまをみつめて、これまでとは少し違った未来へ一歩踏み出せるようにしてくれる。





誰かに心を護られながら、多くの人に助けられながら、自分自身の足で歩いていく、という体験こそが多くの人を救ってくれるのだと思います。


歩き終え、はじまりの場所に戻った時、あるいは日常に帰ったとき、それまでの日常になにかしら違和感を感じる部分があります。自分の日常をいくらか客観的に、冷静にみられる。それが、自分の行動や環境を変えてみるきっかけになる。

御朱印帳なんてどうでもいい。

落ち着いた心で、自分で自分の日々の暮らし方を変えてみようと思えることこそが、得られるものだと思う。


いまいる場所で、歩き遍路を始めてみませんか?